私が19歳のとき、母は私にロサンジェルスへの航空券をくれた。 「アメリカでは働きながら大学へ行けるそうです。がんばってきなさい」 43年前のことである。 ロサンジェルスに行った。 出迎えの夫婦に会った。挨拶を交わしたあと、男が何か言った。 空腹だった私は「イエス」と言った。 男が歩き出したので私はついていった。入ったところはトイレだった。 「レストランに行きたいか」と「トイレに行きたいか」の区別さえつかなかった。 アメリカ人の家での住み込みの仕事を見つけた。掃除、洗濯、食事のあとかたづけなどをした。 英語学校に通った。 夢中で英語を覚えた。 青い空を見上げては「ザ・スカイ・イズ・ブルー」、 赤い花を見ては、「ディス・フラワー・イズ・レッド」と言って歩いていると、 すれちがう人が不思議そうに振り返った。 だんだんと英語を話せるようになるのがうれしかった。 バスの運転手に行き先をたずねたり、店で買い物ができるだけで楽しかった。 ウェブスターの小事典をいつも持ち歩き、学校の行き帰りのバスのなかでも本を読み、わからない言葉があると辞書で調べた。 そんな私に先生方は親切だった。なかでもミス・パプキンは私の英語力の進歩をわが子の成長を見るように喜んでくれた。 「言葉を大事にしなさい。言葉なくして思考はありえません。 思考なくして人格はありえません。 よい言葉をたくさん学ぶことはあなたの人間性を豊かにします。」 ミス・パプキンは三十代なかばの独身の女性で、生徒のなかには不美人と言う人もいたが、生徒ひとりひとりに英語の文章をていねいに教えるときの優しい表情は魅力的だった。 よき友にもめぐまれた。ジャンは軍隊に三年いた後に大学に入り地理を勉強していた。 「名のある学者になってパン屋をしている母を喜ばせたい」 と自分に言い聞かせるように話してくれた。 ジャンが管理人として住んでいるアパートの地下室の部屋に訪ねては話しこんだ。 ジャンは、つたない英語で話す私の人生論に耳をかたむけ、賛同したり反論してくれた。 私がロサンジェルス市立大学に入学した年の夏休みに二人で金をさがしに行った。 アメリカ河の支流の河辺にテントを張った。山を登り谷を下り、 砂や土を平鍋に入れて水で洗ったり、川にもぐり、 河底の砂や砂利をポンプで吸い上げたりした。 耳かきに四杯ほどの砂金が採れただけだったが、友と二人で夢を追い、 夢を語る楽しい一ヶ月だった。 「生まれてきて良かった。この素晴らしい人生を心ゆくまで味わってみたい」 夕食後のたき火を見ながら二人で語りあった。 二十代の私には人生に終わりがあることが信じられなかった。 いつかは来るであろう老いは遠い先のことだった。 青春がいつまでも続き、やりたいことを全部する時間があると思っていた。 中古のワゴン車を買い、一年ほどその中で生活をした。 大学の駐車場で目を覚まし、トイレで顔を洗い授業に出る。 図書館で勉強をして、夜は自動車を運転してレストランでの仕事に行く。 夕食は仕事先のレストランでお腹いっぱい食べさせてもらえるので 朝食と昼食にはお金をかけずにすんだ。 大学の勉強は面白かった。心理学と化学と英語では「A」をもらった。 アメリカの学生たちにまじって勉強していて英語で「A」をもらったときはうれしかった。 カリフォルニアでは寒い冬がないので着るものにはお金がかからない。 何回も洗濯をして青いシャツが空色になり、ズボンのひざに穴が開いても カリフォルニアの明るい空の下ではそれがよく似合う。靴が嫌いではだしで歩き回った。ロサンジェルスでもはだしで街中を歩く人は少なかったのだろう。 警官に呼び止められたり、 「教室に来るときはせめて何かをはいてくれ」と 教師の一人が言うので、それからはゴム草履をはいた。 アメリカには8年間いた。給仕、ぶどう摘み、給油所での仕事、ペンキ屋といろいろな仕事をして生活費を稼いだ。 ロサンジェルス市立大学のあと、カリフォルニア・ステイト・カレッジで 心理学を専攻し卒業して日本に帰ってきた。 英語を使う仕事をしてきて、今は輸入商をしている。 自分の人生を振り返って思う。 勉強は楽しかった。今まで知らなかったことを知り、 今までできなかったことが出来るようになるのは楽しかった。